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シュガー・ラッシュ:オンラインと俺

 「シュガー・ラッシュ:オンライン」を見た。

感想を書こうと思ってはてなブログを開いたらおあつらえ向きのバナーがあったので便乗することにする。

 ディズニーがゲームの映画作ると聞いて前作を見に行ってすごく良かったので、続編の発表があった時はすごく嬉しかった。

嬉しい僕。(顔はめパネルから全然はみ出すというボケを披露し、堂々の0いいねを獲得)

 しかし、こんなちょけたことをやっている場合ではなかった。「シュガー・ラッシュ:オンライン」、ヤバい映画だったからだ。ただ、「俺がシュガー・ラッシュだ」というキャプションだけは、図らずも的を射ている表現となってしまった。

 

 ネタバレ上等でめちゃくちゃ書くのでこれから見る人は心して読んでください(どっちみち読んでください)。

 

 

 前作を、「ラルフとヴァネロペが親友になるまでの物語」とするならば、今作は「それぞれが自立するまでの物語」といえる。前作でお互いの境遇に共感しそれぞれの問題を解決し大親友となった二人はだが、今作の冒頭では仲良くしながらもいきなりすれ違う。現状に満足し、心地いい日常を維持したいラルフと、変化のない毎日にどこか退屈さを覚え、何か新しいことに飛び込みたいヴァネロペ。すでにこの時点でめちゃくちゃ嫌な予感がしていた。ここでの暮らしもいいものだよ、と説いてヴァネロペの考えをなんとか改めさせようとするラルフの姿は本当に痛々しく胸が締め付けられる。どちらが正しく、どちらが間違っているということではないが、そういった不協和を抱えつつ進行する今回の物語の舞台は、インターネットへと進出していく。

 関係ないが、iPhoneを自在に操る子供たちが出てきたかと思えば、ゲームセンターの店長がバックヤードで使うパソコンが昔のMacのカラフルな一体化デスクトップのデカいやつ(名前知らん)で、ゲームセンターの厳しさ、時流からの取り残され感を見せつけられた気持ちになる。今やゲームセンターのゲームではインターネットに繋がっていない筐体の方が珍しいと思う(僕がオタクだからか?)が、アメリカではそんなことないのだろうか。アメリカでは10歳前後の子供たちが親抜きでゲームセンターに通うという光景が現在時点で普通なのだろうか。そういうところも面白い。

 インターネットに乗り込んでいく場面のわくわく具合はすさまじい。閉鎖的なイメージのあったゲームセンターのポータルから、無限に広がるインターネットへの場面転換。暴力的なまでの情報量、デフォルメされて気持ちよく映像に落とし込まれた実在の企業たち。僕は「見たか、これがインターネットじゃい!」などとも思いながら、興奮のあまりちょっと泣いてしまった。まあ実際見ている時に感じていることといえば、すげ~~~、やべ~~~、うぐ~~(嗚咽)位のものであるが、今めちゃくちゃ言語化を頑張っていることだけは伝わってほしい。

 そしてなんやかんやありつつ二人は「スローター・レース」というゲームに迷い込む。そこでヴァネロペはその世界に魅了され、何が起こるかわからない毎日を送りたいという夢を、そこに見出す。

 ちょっと逸れるが、スローター・レースはレースゲーではなくオープンワールドのたとえるならGTAやフォールアウト的なゲームだよな~と思った。どこへでも行ける世界(もちろんゲームなのでマップ上の限界はあるだろうが、オンラインゲームということもありアップデートもあるようだ)で、何をするのも自由というのは、まさにオープンワールドの売り文句であり、ヴァネロペの望みとも合致する。今のゲーム市場を取り巻くオープンワールド至上主義(言い過ぎ?)も、物語の設定にうまく組み込まれていて良かった。

 話を戻して、スローター・レースの世界に夢中なヴァネロペを、ラルフは諭し続ける。この世界は危険がいっぱいだ、もし死んだらどうするんだ(シュガー・ラッシュの世界では、自分のゲーム以外のゲームの中で死ぬと復活できない)という風に。ヴァネロペに関して言えば、ラルフは性格的に、何よりまずリスクを気にしてしまうキャラクターだ(自分のことに関しては後先考えられなくなると言う方が正しいか)。これが自分を見ているのようでめちゃくちゃ辛かった。そういった人間からすると、リスクを承知で進む人間には、リスクが全く見えてないように感じてしまうのだ。リスクを織り込んで考えることと、リスクが見えていないことは、似ているようで全く違う。見えないリスクに絡めとられて何もできなくなっている人間にとって、無限の可能性を信じて瞳を輝かせている人間を直視するのは、針の筵に座らされているように辛い。これを親切心からの行動だと勘違いしてしまうことはもっと辛い。新しい世界を、パンドラの箱と捉えるか、魅力の塊と捉えるかは、少なくともこの映画の世界では後者が正しいことのようだった。その是非に関しては今ここで答えを出すことはできないし、今の僕はラルフに近い考え方をしてしまう人間だ。『俺がシュガーラッシュ:オンライン(現代:Ralph Brakes the Internet)だ』。今後、もし僕が何かしらのリスクをとって何かを成し遂げたとき(何を?)は、GO!ヴァネロペGO!と言えるのかもしれない。

 僕は、作品を面白いと感じるのは、その中の何かに共感するときなのだが、シュガー・ラッシュにこの方向から攻められるというのは想定外だった。僕から見た正直な前作の魅力は、いろいろなゲームキャラがディズニーという舞台に大集合するお祭り感(実質スマブラ)の楽しさと、ヴァネロペのデザイン、表情、振る舞い、声(ジャパニーズ・萌え・アニメ・ヴォイス)の可愛さが主だった。それを期待して見に行った映画がこうだったので、いい意味で裏切られたな、と思った。とにかく、この時点で、この映画はラルフがヴァネロペから自立してゴールなんだな、と思った。実際それは間違っていなかったが、もうワンポイント、めちゃくちゃ気持ちをゆすられる場面にぶつかることになる。

 なんやかんやあって二人がインターネットに来ることになった原因である、壊れてしまったシュガー・ラッシュの筐体のハンドルを手に入れるため、二人は金策に奔走する。ハンドルを壊した原因の一部がラルフにあることもあるが、ハンドルを手に入れなければヴァネロペの帰るゲームがなくなってしまうこと(=ヴァネロペとの生活が壊れてしまうこと)を恐れたラルフは、自分をネタ(犠牲)にした動画を投下しまくり、身を粉にしてお金を稼いでいく。HIKAKINのマネもする(Youtuberがイジられてて笑ってしまった)。終始「ヴァネロペのため」と繰り返す彼だったが、それは本当だろうか。ヴァネロペを失いたくない、自分の都合の形にとどめておきたい自分のための叫びにだんだん聞こえてきて、胃の底から冷たい気持ちになってくるのを感じた。しかも、こういう話だと動画がウケたラルフが調子に乗って自分のゲームセンターを捨てると言い出すというような展開になりそうなものだが、それもない。ラルフにとってはヴァネロペと一緒にゲームセンターに帰ることがすべてなのだ。それ以外がまったく見えていないのだ。そういう気持ちが本当によくわかるからこそこの映画は恐ろしい。ちなみに、僕はこの文章を、ラルフにどちらかというと批判的なテイで書いているが、そうしていないと一気にラルフ側に転がり落ちてしまう恐れがあるからだ。

 ラルフのやりきれない気持ちの矛先は、ヴァネロペを魅了するスローター・レースへと向かった。彼女が夢中な男性アイドルがテレビに映るとチャンネルを変えるように、娘が交際している恋人にそっけなくするように、ラルフはそのゲームをめちゃくちゃにしようとする。その結果どうなるかというと、文字通り肥大化してデフォルメされた、ラルフの弱点である、思い込みに満ちたヴァネロペへの執着(本当はもうちょっといろいろあるが)がスローター・レースを壊していく。どうにもならない気持ちがどうにもならない気持ちで発露するさまというのは辛い。それで得られるものは一時的でしかなく、後悔に変わることが主だし、長期的に見ると関係を蝕んでいくからだ。

 自分の醜い一面を見せつけれられたラルフは、自分の欠点を客観し、その自分を否定する。「俺ってこんなに不細工で気持ち悪かったのか…。(引用するセリフは完全にニュアンスのみです。細かいところを全く覚えていないので)」自分の弱点を克服するためとはいえ、これをラルフ自身に言わせることが正しいことなのかが本当にわからない。自分の弱さも含めて自分を愛するというのが綺麗ごとであることは百も承知だが、自分ではどうすることもできない容姿もないまぜにして否定までしなければならないステップなのこれ?と感じた。すごく残酷に思える。Let it goが許されるのって美人だけなのか。まああれは実際のところ一人で誰にも関わらず勝手にしま~~す的な曲なので状況が違うけど。とにかく、自分の醜悪な面と向き合うのはつらいことですよ、ということである。僕は、自分の欠点に打ちひしがれるラルフにかなり感情移入してしまった。他人に依存して自分がないこと、自分を確立できていないことは、その他人がいなくなるという段で簡単に自分をぶち壊す。それを避けようと足掻く姿もまた醜いが、僕にはそれを笑い飛ばして否定することができず、目を手で覆うけど指の間から見る、みたいな気持ちになってしまった。

 そんなラルフの姿を見て、ヴァネロペは「スローター・レース」で暮らすという夢をあきらめると言う。だからもう暴れるのはやめてと。本当につらいことだ。もちろんラルフ(本人ではないが)も暴れたくて暴れているわけではない。でもこのままでは誰も望む形で着地できない。そうやって連れ帰ったヴァネロペは、おそらくラルフと今までのように接することはできないだろうからだ。この状況を打破できるのは当然ラルフだけだった。ヴァネロペの夢を認めること、自立して生きることを決心して。

 「友情の形は変わる。」ヴァネロペの新しい友達であるシャンクはヴァネロペ(と、ミュートになったラルフ)に言った。もちろん友達と離れるのはつらいことで、なるべくならいつでも会えた方がいいに決まっている。しかし、近くにいなくとも、友達は離れていても友達なのである。ここまでの関係になるに至ったすべての時間と記憶があるから。百万回擦られたであろうセリフだが、今の自分の境遇と重なって、めちゃくちゃ号泣してしまった。『俺がシュガーラッシュ:オンライン(現代:Ralph Brakes the Internet)だ』。

 

 平成も終わろうかという2018年末、実際の物理的な距離と人間関係などというものはほぼ関係ない。国内であれば会おうと思えばその日のうちに会うことができるし、それこそインターネットがあれば世界中どこでも数秒でコンタクトをとることができる。悲観することはない。新しい友達や新しい目的だってきっと見つかるし、そこで出会う人々に、楽しかった僕たち出来事の話をするのもいいだろう。とにかく、気軽に遊べなくなっても、僕たちは変わらず友達で、人生は続いていくので、次に会うまで頑張りましょうということである。

 

こちらからは以上です。