髭剃らぬ男
フィクションの話をします。
ある金曜日。
定時を大幅に過ぎたオフィスにて、脳内で無限に呪詛を吐きつつ終わらない業務を貪っていた。メンバー全員の表情が終わっている我がチームの、常識的には誰もかけてこないはずの外線が突然鳴った。すでに退勤した部長の携帯の番号が、光るディスプレイに表示される。
電話をとる。
「イルヤスくんか!まだやってんの!今駅前で飲んでんねんけど、イルヤスくんもどうや!?早よ終わらせなあかんで!」
お断りである。
という旨の返事を入社当初頻繁にしていたら、イルヤスくんは付き合い悪いからなー!俺3回も断られてなー!、いや部長2回っすね、というようなやり取りを7000回する羽目になったので、過去に学ぶことのできる賢人こと俺の答えはひとつだった。
すぐ片付けて行きま〜すという感情2gの返事を素早く叩きつけて電話を切ると、周りの終わった表情のメンバーは終わった苦笑いともつかぬ表情を浮かべていた。お前らも誘ってほしいのか。
すぐと言って時間を明示しなかったのをいいことに、30分くらいダラダラ仕事を引っ張っていると、すでに飲み始めて酔っている様子の先輩さえも電話をかけ始めてきたので渋々会社を出る。店はマジで駅前の駅前で、あと10歩進めば電車に乗って帰宅できるかと思うとやりきれない気持ちが募る。
席に着くと、完全にテンションの上がりきった部長が「イルヤスくん遅いで!生でええか!?」と声をかけてくれたので、粛々とレモンサワーを注文し、週の終わりのエクストラステージのゴングを虚しく聞いた。
そういった場で吐くことのできる愚痴など1つもなく、帰国子女の後輩に英語で話しかけては聞き取れない返事を返してもらってウケるという、素材丸出しのユーモアに多少の胸焼けを感じながら、突き出しの小鉢をつついていると、
「イルヤスくん、ヒゲ濃くない?それ毎日剃ってんの?」
部長にまで上り詰める人間はそれなりによく気づくということか。不必要な観察眼を突然披露された俺は、男性ホルモン過剰なんですかね、だいたいこの文明に守られた現代に男性ホルモンなんか必要なくないですか?狩猟民族じゃないんだから。前髪もやばいし大変っすよ、などといきなり喋りだすことによりブリザドを唱え場を凍てつかせることを怠らない。俺の猛スベりを他所に、部長は何かを思いついたとニヤニヤしている。
「月曜までヒゲ剃らんかった奴が勝ちってことにしよう」
何に?
いや、何にですか?という俺の貧弱な質問を聞いたか聞かずか、部長は続けた。
「剃ってきた奴は次の飲み会の金を払う、これでどうや!」
どうもこうもない。次の飲み会を早々にアレンジするんじゃない。
「いや一番ヒゲ伸びた奴が勝ちにしようかな!あーそしたらイルヤスくん有利なるな〜〜」
こんな嬉しくない有利があるか?
「女性陣に誰が一番イケメンになったか判定してもらおかな?」
いや部長、それこそ僕が超有利になっちゃって勝負になんないですよ〜〜〜!
そして静寂。
最終的に当初のルール、「月曜までヒゲを剃らなかった奴の勝ち」に決まった。参加者は、部長、先輩2人、俺、後輩の5人だ。世界一意味のないエントリーである。
こうして、ヒゲを剃らない奴が偉いという古代ローマでしか通用しない価値観を鮮やかに現代に蘇らせた勝負の火蓋が切って落とされた。飲み会は先輩のひとりが潰れてトイレからなかなか帰ってこなくなったところでお開きとなった。
その土日、俺はヒゲを剃るべきか剃るべきでないか本気で悩んだ。うちの会社はそんなデカくもないくせに服装や身だしなみに多少うるさい。あまりだらしないとチクリと刺されることは十分考えられる。非常にめんどくさい。逆に、悩み過ぎたら髪が抜けるように、ヒゲも薄くなるかなと思ったが、全くそんなことはなかった。
月曜日。
ヒゲを剃らなくても最悪一日中マスクしてれば大丈夫だろう、そう思っていたが間違いだった。ヒゲとは口の周りと顎にだけ生えるものではない。首のところは覚悟の上だったが頰の部分はマスクでは隠せないという事実に気づいたのは出発の3分前だった。…頰だけでも剃るか?しかしこれで誰も剃って来なければ意味不明な飲み会に出席させられた上にお金を払う羽目になる。そうなれば目も当てられない。だが、いくら意味がないとはいえ、これはチキンレースだ。何の事情も知らない、全く関係ない場所の知らん偉い人になんだあのヒゲ小僧はと思われるリスクを取らずして勝利することはできない。意を決して出発した。
真夏とマスクの相性は最悪だ。微妙に語感が似てて韻が踏めそうで踏まないところからもその相性の悪さが伺える。もちろんイヤホンとの相性も良くない。憂鬱な月曜がまた輪をかけて憂鬱になる。金曜夜の就業前の高揚感がさっきのことのようで、土日の時間の儚さが身に沁みる。駅に着いて電車に乗る。改めて人々の顔を確認すると、みんなしっかりヒゲを剃っている。意外と人々はちゃんと生活しているものだなと気づいた。
会社に着いた。部長はすでに席についている。しかし頬杖をつき、その顔の下半分はよく見えない。
飲み会の翌日恒例の挨拶をするため、部長の席へ向かう。このルールほど会社員の惨めさを思い知らされるものもないが、この日は違った。俺と部長の一騎打ちの瞬間である。付けていたマスクを取った俺を見て、部長はニヤリと笑った。
「日曜な、子供の学校の行事に出なあかんくて、剃ってもたわ!イルヤスくんの勝ちやな!」
虚しっ。俺は勝者の孤独というものを知った。
「いや社会人としてヒゲは剃るべきやろ」
「ごめん、なんも覚えてない」
俺と後輩だけが踊っていた。
部署のメンバーにもこの無益な争いのことが伝えられ、俺の不剃(そらず)の顔がお披露目された。以下その際の反応。
「意外といい」
「犯罪者?」
「普段は嫌悪感あるけど今はまだマシ」
「ワイルド系じゃん」
「ジョニーデップさんですか?笑」
大好評である。
最近気づいたこと。社会人にとって、一手の遅れは命取りである。ひとつ面倒ごとを後回しにすると、すぐに自分が追い詰められる。俺はひとつどころか何個か後回しにしてしまった事項があり、四面楚歌をアリーナで聴くが如しの状況だった。他の部署からあの件進捗どう?と聞かれても、うるせー口縫うぞ、すっこんでろとしか答えられない状況だった。キリが良くなかったので昼休みになってもちょっと仕事をして、ひとりでご飯を食べることにした。ココイチに行くか、ラーメンを食べるか、悩んだが適当にすき家に行くことにした。運ばれてきたねぎ玉牛丼を食べようとして、マスクを取ってヒゲ面ノーガードの体制をとった時に気づいた。牛丼や特有のU字テーブルの角に座っていた俺の90度横に、つまり隣に、なんか顔見たことあるおっさんが座っていた。どこの部署のどれくらい偉い人なのかもわからない。俺を知っているかどうかもわからない。しかし見たことはある。ということはこいつも俺を知っているかもしれないということだ。全くヒゲを剃らず出勤している下っ端がいるという事実だけが、すき家の片隅に揺るぎなく存在していた。
仕事の手詰まり感、憂鬱さも手伝って、ねぎ玉牛丼の味がわからない。おっさんはメニューを見ている。俺に気づいているかどうかも不明。なんでこんな時に、それもわざわざ隣に来るんだ。こういう時、万全のコンディションでも挨拶するかどうか微妙だわ、いつも絶妙に迷うわ。あー他の人らに伝わったらダルいな、もっと遠くのお店行けばよかったな…
そんなことをぐるぐる考えているとおっさんが店員を呼んだ。注文を決めたのだ。
「カレー大盛りで」
ココイチ行け。
おわり